【いぬじにはゆるさない】人生は死にゲーだ
「死にゲー」というゲームジャンルがある。
理不尽なまでに難易度が高く、初見ではまずクリアが不可能というレベルに難しい。何度も何度も死に(失敗し)、敵やトラップの配置を少しずつ覚えていくことでしかクリアできないゲームのことだ。
最初期のファミコンゲームにはこの「死にゲー」がやたらと多い。
この頃はまだテレビゲームというジャンルが確立する前の時代。一説には、開発陣がテストプレイで繰り返し繰り返しプレイすることによりそのゲームが超人的に上達、次第に難易度感覚がバカになり「この程度の難易度ではプレイヤーが満足しないのではないか」ということで猟奇的なまでに難易度が上がっていったという逸話もある。
プレイする人によってはあまりの難易度にフラストレーションが溜まり「こんなもんクリアできるわけねーだろ」とゲームを投げてしまう場合もある。
最近、というかまあ結構前からゲーム開発に携わる人も「あ、この難易度は鬼畜なんだな」ってことがわかるようになり、子供がプレイしたらトラウマを植え付けるレベルの難易度のゲームは減りました。
というかそう言った鬼の難易度のゲームは「あえて死にゲーを作りました」という宣伝をすることで、苦手な人がプレイしないように仕向ける売り方をしています。
また、インターネットの普及によって僕らは事前に「どんなゲームなのか」という情報を得ることができるため、前情報が何もないままに死にゲーを買ってしまい絶望に暮れるということはほとんどなくなったのではないでしょうか。
しかし、僕らが子供の頃。
長い年月をかけてお小遣いを貯め、お正月のお年玉ブーストを使い、心臓が口から飛び出るんじゃないかってくらい緊張でドキドキしながら、おもちゃ屋さんでファミコンと1本のゲームソフトを買ったあの頃。
あの頃の僕らは、事前にこのソフトがどんなゲームなのか、という情報をほとんど仕入れることができないままに買うしかありませんでした。
得られる情報といえば、せいぜい裏パッケージを眺めるくらい。
多分当時もファミコンソフトの情報をのせた雑誌とかはあったんでしょうけど、まずその雑誌を買うお小遣いが惜しかった。
そんなコアな雑誌を買うくらいならコミックボンボンを買う。それくらいに僕らの財政はひっ迫していました。
そんな手探り状態のなか、僕がいちばん最初にファミコン本体と合わせて買ったのは「激亀忍者伝」というゲームでした。
これはなんか知らないですけど何かの拍子で亀がムクムクと大きくなり、人間並みの知能と二足歩行、筋肉隆々の体を手に入れ悪の組織を打ち砕くというお話。
アメコミのミュータントタートルズを原作としたゲームでした。
当時の僕はファミコンと一緒に買うという記念すべき人生初のファミコンソフトになぜこれを選んだのか。ミュータントタートルズに思い入れがあったような記憶もないのに。亀がムクムク大きくなるという謎のシモネタ感に惹かれたのか。流石に当時そんな暗喩表現に顎をさすりながら「ほう……亀がねえ……」とかいうほどの知識はなかったぞ。
ともあれ人生最初の、生きてきて初めてプレイするファミコンゲーム。
まずTVとファミコンを接続するためにエイリアンに出てくるフェイスハガーみたいな機器をアンテナと繋げて、とか色々ありながら、というか全部イトコのお兄ちゃんにやってもらったんですけどそんな紆余曲折を経て、完全初見のファミコンゲームをプレイすることに。
なんだこれ!
すげー楽しい!
ヤバイこれどうやって動かすの?
攻撃はどうするの?
ああヤバイヤバイやられてる!!
痛い痛い!
ああああああ死ぬ死ぬ!!
ヤバイヤバイああ死んだ!!
こんな感じで大興奮ですよ。
めちゃくちゃ楽しい。最高。当時遊ぶといえばバッタ取りだった僕にとっては完全にオーバーテクノロジーでした。
何度も何度も死に、操作を覚え、キャラクター特性を覚えました。
同年代のイトコと、お兄ちゃんのイトコと3人で交代しながらステージを進めていきました。
でもですね、難しいんですよ。
このゲーム理不尽なんです。
理不尽なくらい難しいんです。
何度やってもクリアできないステージとか出てくる。
3人で力を合わせたとしてもまったくクリアできない。
何度死んだかわからない。
この亀のキャラクター、死ぬと筋肉隆々の状態からシナシナと普通の亀に戻るんですけど、何度この映像をみたかわからない。「ほう……亀がねえ……」とか言って顎さすってる場合じゃない。何の暗喩なのか、これはシモネタじゃないのかとか考えてる場合じゃない。
もうこのゲームはやりたくない。
こんな亀が嬲り殺されるだけのゲームなんてやりたくない。
亀が嬲られるとか年端の行かない少年に倒錯した性癖を植え付けかねない。
そんな風に嫌気がさしたとしても、それでもファミコン自体はやりたいわけです。
でもソフトはこの亀が嬲られるゲームしか無い。
当時僕にとってファミコンソフトなんてのは、まさに天上のアイテム。
誕生日やクリスマスなんかの特別な日でなければ入手することは叶いません。
何度嬲り殺しにされようが、ファミコンがやりたければこのゲームをやり続けるしかなかったんです。
先日、Webライター&ブロガーとして灼熱の活躍をされているふたごやうめじんたん先生の小説処女作「いぬじにはゆるさない」を読んだんですが、まさにこのことだなと。
何度失敗しようとも、何度死のうとも、ひとつのゲームをやり続けるしかなかったあの頃。
これはまるで何度失敗しようとも、生き続けなければならないこの人生のようだなと。
そう、人生は死にゲーなんだなと思ったんです。
「いぬじにはゆるさない」は心に傷を抱えた主人公の恋愛物語
「いぬじにはゆるさない」はふたごやうめじんたんさんの人生経験を元にした恋愛小説です。
主人公は婚約をした恋人がいましたが、結婚直前に恋人の浮気が発覚。破局を迎えます。
そこからショックのあまり食べ物を受け付けなくなり、人との関わりが怖くなってしまいます。
何もやる気が起きず、眠りは常に浅く、食事もろくに喉を通らなかった。運転や入浴中に思わず涙がこみ上げ、嗚咽を漏らすことはもはや日常だった。
”死ねば、私はこの苦しみから逃れられる”
そう思ってしまうほどに主人公は弱りきっていましたが『一人自殺すると三人鬱になる』という言葉を知って以来、生きる以外の選択肢を頭から排除し、生きることに専念するようになります。
ウォーキングを始め、無理矢理にでも食事を摂り、次第に心身ともに安定するように。
元恋人の浮気相手からの無言電話や嫌がらせにも遭いますが
浮気相手の子とあの人の関係が今どうなっているのか知らないけど、どう考えても幸せじゃないじゃん? 負の感情に振り回されて、惨めで、辛くて、仕方がないんだと思う。
(中略)
私が怒りなり、悔しさなり、苦しい気持ちで居続けてたらそれこそ思うツボじゃん?
(中略)
「辛い時は、少年漫画みたいに自分自身に発破かけてたんだ。『犬死には許さない』って!」
悪意に飲まれて潰れてしまったら、自分がもったいない。今はキツくても絶対に笑えるようになる。今ここで終わってしまえばそれこそ犬死にだ。
と考えられるくらいに回復します。
そんな中、「丁度よい距離感の友達」だった蛇ちゃんにいつの間にかほのかな恋心を寄せるようになり、「仲の良い男友達」だったイイジマに告白される主人公。
主人公の明日はどっちだ!
「いぬじにはゆるさない」はそんなお話になります。
人生は死にゲーだ。だからこそ「いぬじにはゆるさない」
失敗をしない人間はいません。
選択を間違わない人間もいません。
しかし、それでも人生は続いていくのです。
「いぬじにはゆるさない」に登場するキャラクターには、それぞれに仄暗い過去があります。
主人公がほのかな思いを寄せる蛇ちゃん。
主人公にストレートに告白をしてくるイイジマ。
それぞれが過去に問題や失敗であったり、傷であったり、コンプレックスを抱えて生きています。
もちろん主人公も恋人の浮気による婚約破棄という、心身に絶大な傷を負っています。
きっと誰だって、蛇ちゃんやイイジマと同じなんだと思います。
主人公と同じなんだと思います。
失敗して、傷ついて、傷つけて、絶望して、死にたくなって。
しかし、人生は続いていくのです。
生き続けていかなければならないのです。
だって、そこで終わってしまえば「犬死に」じゃないですか。
僕たちは生きてさえいれば、どんなことでも「過去」にできます。
「過去にしてしまえる」のです。
僕は結局、あのファミコンソフトの「激亀忍者伝」をクリアすることはありませんでした。
なんか海のステージで時間制限があるなか、電流のトラップを無効化してからその先に進まなければならないあたりでもう心が折れて投げ出してしまいました。
ゲームを投げ出してしまった。
それ自体は苦い思い出で、その過去だけを見ればそれは犬死にです。
しかし、そのおかげで今こうやって激亀忍者電の思い出を語れていると思えば、それは犬死にではなくなります。
時間を経ることで、失敗を糧にすることができたわけです。
あの頃のファミコンソフトと同じように、僕らの人生に事前情報はありません。
失敗しながら、死にながら、少しづつ敵の配置やトラップを覚えていくしかないんです。
人生経験を積んでいくしかないんです。
人生は辛く苦しい死にゲーです。
死にながら、失敗しながら、しかし続けていかなければならないのです。
失敗を過去にして、糧にするために。
犬死ににならないように。
この作品はきっと、僕らの人生を応援するメッセージなんだと思います。
今、どんなに悲しくても。
どんなに辛くても。
それで心が折れるなんてゆるさない。
これからも、何があっても、ずっと生きていくんだ。
その先には、絶対に今のその経験が役に立つ時がくるから。
あなたのその感情は、経験は、体験は、絶対に意味のあるものだから。
だから「いぬじにはゆるさない」
あなたには、その強さがあるんだから。