デレステのアイドルたちはもはや神であり、僕らの内なる太陽。
こんにちは、たくろうです。
今回はアイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ(すごい早口で)について話をしようかと思います。
あ、略してデレステです。
このタイトルはアイドルマスターシリーズのモバイルアプリの1種、いわゆるリズムゲーとなります。
完全無課金でも全ての楽曲を遊ぶことが出来るという破格のアプリ。
そしてなにより登場するキャラクター=アイドルがそれぞれ絶望的にかわいいんです。
しかし、かわいいだけじゃない。
そのアイドルひとりひとりのバックボーンがしっかりと作り込まれており、いわゆる「推し」のアイドルとして感情移入するに充分な逸話の数々を打ち込んできてくれます。
そしてこの世界、みんながみんな一生懸命。
前向き。みんな仲良し。
お互いを否定しない。
そんなけもフレのような世界観なんです。
このね、みんながみんな一生懸命ってところがね、もうおっさんの琴線をビンビンに弾いてくるわけですよ。
若い子達が全力で努力して、全力でぶつかって、全力で笑ったり泣いたりする。
もうもう、それだけで泣けてくる。
甲子園決勝かってくらい泣けてくるわけ。
どうなの、スマホでゲームして泣くおっさんってどうなの。キモイの? ですよね。
アイドルとは偶像崇拝と同義だと思う
そもそも歌や踊りというのはシャーマニズムの側面を持っています。
神話の時代から、なんか岩戸に隠れた太陽神に出てきてもらうために芸能の女神が乳とかボロンと出して踊るとか、巫女が託宣を得るために舞うとか、神様への貢物としての舞や歌を披露するとか、神様と歌や踊りというのは密接に関係しています。
これがそもそもの芸能であり、大衆はこの神様への捧げものを出歯亀根性でちょっと除きました的な立場なんですよね。
つまりアイドル=巫女であり、それは以前から大衆には手の届かない神々しい存在であるわけです。
アイドルを「神セブン」って呼んだりとか、使い方としては間違っていないわけですよ。
デレステとは、本来のアイドルに近いもの
親しい存在でありながら、近づくことはできない
今でこそ「会いに行けるアイドル」という形態が一般化していますが、そもそもが神と親しい存在であるアイドルは、僕ら大衆がおいそれとお近づきになってはいけない存在なんですよね。
デレステでは架空のアイドルをプロデュースするという形で、物語が進行していきます。
僕たちはアイドルに一番親しい存在でありながら、実際は触れることもコミュニケーションすることもできない。
大衆が神に舞を捧げている巫女を遠巻きに見ているという状態に近いわけです。
人間味を感じさせない
巫女は託宣を受けるため、また、儀式のため、本来大衆化されないものです。
同じ集団の中にいても、その存在は神のお告げを受けるためのものであり、大衆とは一線を画しているわけです。
昔のアイドルだって「えっ、トイレで出すもの? 星屑ですぅ」的なコメントを求められていました。
アイドルとは綺麗なものであり、汚れた部分がないもの。つまり、人間味がないものでした。
デレステでも全てのキャラクターが「かわいい、前向き、みんな仲良し、お互いを否定しない」と、まるで聖人君子のような存在です。
汚れた部分がまったくない。つまり、ある意味で人間味がない。
これは究極的にアイドルであるわけです。
デレステのアイドルたちはもはや神であり、僕らの内なる太陽
そんな近くにいるけどまったく次元の違う存在であるデレステのアイドルたち。
彼女たちの頑張りを見ていると、やがて僕の日常生活にも彼女たちが入り込んできます。
「凛ちゃんならこんなときどう考えるだろう」
「凛ちゃんはこんなときはこうするだろうな」
「凛ちゃんのために今日も頑張ろう」
僕らの心のなかにアイドルが住み付き、やがて心の支えとなります。
僕らの人生の道を照らす太陽となってくれるのです。
「凛ちゃんのように、前努力家で、誰も否定せず、前向きに生きたい。そうありたい」
全く近づくことができない代わりに、常に僕らの心の一番やわらかいところに寄り添ってくれる。
それがデレステのアイドルたちなのです。
彼女たちの頑張りに涙を流し、勇気づけられ、その姿を拠り所にして生きていく。
そう、彼女たちは僕らの心の太陽なんです。
え? 最高にキモい?
良いんです。僕には凛ちゃんがいるから。