命を奪うなら、命を奪われる覚悟が必要だ

生きとし生けるものは栄養を補給しなければ生きられない。
僕たちはものを食べなければ、生きることはできない。

太古の昔、僕たちのはるか祖先の時代。食べるということは死と隣合わせだった。

野草や果実で飢えを凌いでもたかが知れている。
腹を満たすには狩りをして、獲物を仕留めなければならない。

狩りをするということは、獲物と命のやりとりをすることになる。
自分よりも大きな動物は言わずもがな、例え自分よりも小さな相手でも、窮地に追い込まれた反撃により負傷することがあるかもしれない。

怪我をして満足に狩りができなくなれば、食料にありつけずやがて死に至るだろう。
手負いの自分を獲物とみなした動物に襲われて、食われることもあるだろう。

生きるために殺し、生かすために死ぬ。
はるか昔、生命とはそういう関係性にあったのだ。

今、僕たちは命のやりとりをすることなく食料にありつけている。
それは発達した農耕技術のおかげでもあるし、家畜のおかげでもある。
渡哲也のような漁師が「マグロ! ご期待ください!」と言い残し荒波に身を投じ、漁をしてきてくれるおかげでもある。

スーパーに行けば綺麗に品質管理された野菜が並び、切りそろえられた魚や肉にありつける。それどころか、誰かが調理した食品をすぐに食べることもできる。

おかげで僕たちは「命を頂いている」という食事のありがたみを感じることが少なくなってしまったのではないだろうか。

本来は命がけであるはずの食事を、ただ漫然と、食べるためだけに食べてしまってはいないだろうか。

しかし、老人は違う。

老人は、生きることそれ自体が命がけだ。

僕は老人ホームに勤めている介護士であり、様々な老人を見てきた。
老人は日常生活のすべてが危険と隣り合わせだ。

老人は、まず歩く時点で危険が伴う。
筋力の衰えや視野の狭窄、不安定な体幹により、圧倒的に転びやすくなっている。
バギーを押しているから安全に歩けているのに、勘違いしてバギーを手放して転ぶ老人もいる。
足が折れてるのに何故か歩けると思い込んで1歩目で転び散らかす老人もいる。

トイレに行くのだって命がけで、ウンコを出した瞬間に顔面蒼白になって意識を失う老人だっている。命を賭したウンコだ。

もちろん食べることも命がけだ。
食べ物を噛む能力や飲み込む能力が低下した老人は、何を食べるにも危険が伴う。
「噛めない→しょうがないからそのまま飲み込む→窒息」という綺麗な方程式が成り立つ。
綺麗すぎて宇宙の全ては数式であらわすことができるんじゃないかと思ってしまうほどだ。

もちろん僕たちだって、その綺麗な方程式に見惚れているだけではない。きちんと対策は講じている。

噛む力が低下したら、噛みやすく1口の大きさにカットしたものや、歯茎だけでもすりつぶせる食べ物を。
飲み込む力が低下したら、トロミがついたペースト状の食べ物を。

それでもやはり、老人の食事は命がけなのだ。

先日のこと。
普段からほとんど食事を摂らない老人がいた。
グルメというかワガママというか、施設で出す食事を「こんなもの食えたもんじゃない」とほとんど残してしまうのだ。

出される食事は食べなくても他のものなら食べるということなら良いのだが、その老人はせんべいの「ソフトサラダ」とか、みかん1粒とか、そういったものを少量しか口にしなかった。

困り果てた僕らは「好きなものはなにか」「食べたいものはなにか」を老人に聞いた。
すると老人は「寿司が食べたい」という。

早速僕らは老人のために寿司の出前をとった。

もちろん老人には凶器に値する「イカ」とか「タコ」とか、そういった噛み切りづらいネタは省いたものだ。

久しぶりの寿司に老人は喜び、普段からは考えられないくらいパクパクと食べだした。

僕らも安堵し「これからは定期的に寿司を取ってあげようか」と話をしていた矢先、老人は急にうなだれ、顔面蒼白になった。

寿司を詰まらせたのだ。

僕たちは「吐き出してーーー!!」と声をかけながら、和太鼓のようにドコドコと老人の背中を叩きまくりつつ、看護師を呼んだ。
看護師は吸引器をセットし、鼻から口からチューブをぶち込み、詰まったものを取り出そうとした。

結果、老人は詰まらせていた寿司を吐き出し、一命をとりとめた。

詰まらせていた寿司は、マグロだった。
「マグロ! ご期待ください!」とか言ってる場合じゃなかった。

老人は僕たちに教えてくれているのかも知れない。

生きるということは、命をいただくということ。
命をいただくということは、命のやりとりをするということ。

老人がマグロを食べるということ。
それはマグロ漁師のように、危険と隣り合わせだということを。

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日記

Posted by たくろう